バーチャルロングインタビュー
小野里公成の花火写真を語る−200X年某月某日
我が永遠の花火讃歌
 写真というものはもともと一台のカメラで撮る、ある瞬間の映像は、唯一無二のもので、その瞬間のオリジナルの写真は一枚しかないものなんです。もちろん同時にシャッターを切るカメラを増やせばある程度はカバーできるはずですが。
 花火も二度と同じ写真が撮れない部類のものなんです。これには同時に、「ひとつとして同じ花火は作れない」という煙火業者さんの言葉も添えておきたいと思います。同じように造った花火さえ何らかの加減で、同じには開かない、と花火作家の皆さんはよく仰います。
 風景写真やスタジオでの動かない商品写真などでは、アングルを変え、レンズを換え、ある程度何カットも撮ることが可能でしょう。花火の写真ではスポーツ写真のようにある瞬間の写真はただ一枚のものですし、たとえ同じ花火をもう一度打ち上げてもらっても、二度とその花火は前と同じには開かず、写真もまた同じ様には撮れないでしょう。
 花火は色々な意味で一期一会の被写体といえます。ですからかなり気持ちが集中していないとうまくいかないですね。ですからその花火大会の目玉とか、気に入った作家の打ち上げの直前などは緊張感でもう心臓バックバクですよ。 
作風と取り組み方
    

 私の写真は近年のアート花火写真と区別するため、「正統派」などと言っているのですが、知り合いの写真家あたりからはそのうち「古典派」と言われるゾと脅かされています。とにかくこうした「花火を観たままに撮る」という撮影方法の基本はずっと昔から変わっていないからなんですよ。だから花火は撮り尽くされたと何度も言われてきたし、カメラ誌でフツーの花火の写っている写真をコンテストに出してもまず見向きもされませんね。それでもそうした専門誌は、毎回同じ書き手を使って花火撮影の方法特集を掲載しているんです。その中身は今も全然変わっていないっていうか。カメラの操作やフレーミングはともかく、被写体の花火については殆ど何も知りません、という文章ばかりですしね。普通はアマチュアが趣味で撮影する写真にしたって、被写体についてほとんど知識や見る目を持たないなんていうことはありえないのですが、こと花火についてはそれで通ってきたんですよね。つまり撮り方さえわかれば被写体についてはなにも知らなくても写るというわけですか。
 しかし私の花火写真がそれでも新しいといえるのは、古典とも言うべき従来からの手法を使っていながら、これまでの花火の写真にまったくみられなかった色彩美と、スタンスを実現しているからなんです。スタンスというのは、取り組み方でしょうか。まず独自の花火観や知識と揺るぎ無い鑑賞眼があること、その上にたって花火を主役に、花火を観賞する写真として撮る、ということが基本になっているわけです。
 さらにいえば花火作家の匠や、花火のもつ美や芸術性、文化としての本質に肉薄していく、という花火の解釈と撮り方はこれまで誰もしていなかったことで、こうしたスタンスはまったく私独自で先駆のものと思っています。花火は撮り尽くされた、と決めつけられてきた花火ですが、実は誰も花火の本質を理解していなかったし、撮り尽くすどころか誰も入口にも達していなかったのです。
 これまで花火と言えば風景写真や夜景の添え物か、あくまで夏雰囲気を演出する脇役としてとらえたとしか思えない写真ばかりで、既に述べたように別に花火のことなんか何も知らなくても良かったわけです。しかし私はこれまでのこうした写真に少しも感動していなかったんです。花火は写っているもののいずれもまったく美しくなかった。実際の花火はすごく感動的なのにね。だから私は花火が主体で、色と、形態にこだわり、美しさと迫力を感じる写真を撮りたかったわけです。どの花火作家が作った玉なのかが分かるように撮りたかった。その願いが私の現在の花火写真を形作っているのだと思います。「あーっ花火って綺麗だな」って、美しい花火の姿が見られるという意味で、自分で自分の写真のファンだといえますね。いい写真だ、と思う前に綺麗だなぁとか、いい玉だなぁ、いい花火だなぁ、と最初に感じられたらそれは私にとってかけがえのない当たりのワンカットです。
 私が、目前に展開する花火の美しさの向こうに見える、花火の匠にうたれたように、花火職人の魂に響くような花火映像を撮りたい、と常に考えています。花火職人の技と心意気を真正面から受けとめ、それを万人にわかりやすく伝える、そんな写真が撮りたいわけです。
 私のスタイルが古典であるなら、それは花火そのものの姿でもありますね。現在の日本の花火のスタイルや製造技法の基本は、すでに完成された技術なわけです。現代の花火作家はそうした伝統の技術をふまえた上で、新規の花火作りに取り組んでいます。いわば温故知新で、私の花火写真もそうしたスタイルに近いもの、いわば「新古典派」といえるのでしょうね。
 もう一つはドキュメントとしてのスタンスです。私が花火写真を撮り、花火の世界に浸るようになって、何とも残念に思ったのは、あらゆる花火大会で、主催者も業者もまた個人、団体を問わずあらゆる写真愛好家が、花火について一切の映像記録を十分に残してこなかった現実です。確かに花火は消えて無くなるものとはいえ、プログラムや競技結果、その映像の記録がほとんど無い、とは呆然としたものです。だからあえて私はそういう責務を自らの務めとして、記録としての写真にも取り組んでいます。私の写真はその意味では観覧の記録つまりドキュメントのスタイルでもあるわけです。
 また、花火を愛するが故、また花火作家とその巧みを尊敬するが故、花火は完成された芸術としてとらえたいんです。私にとっては、自分の芸術を作る部品として花火を使う、ということはどうしてもできないんですね。これはもう好きなのだからできない、としかいいようがないんですけれど。
 様々な特殊撮影技法を駆使するアート派の花火を題材にした写真に比べれば、自分のそれはめざましく発展することがないなぁと思うんですよ。でも例えば、記録のためにスポーツ選手が、もくもくとベストなフォームに磨き上げていくように、モータースポーツでもコンマ1秒を刻むために理想のライン取りに集中するように、私の花火写真はそうした微修正のプロセスであるようです。自分で、うんうんと納得しながら少しづづより良くというふうにね。
 最近は、インタビューでも写真の貸出先からも「他にお撮りになっている写真は?」ってよくきかれるんですよ。他のテーマの事だと思うんですけれど、一年中花火の方やっていますからね。それにこれまでいろいろ手を出してきて、ふるいをかけるように花火が残ったわけですから。風景とかなんとか言ってみても、他にお撮りになっている大御所はたくさんいるわけですしね。今、自分ができるから、自分がやらねばならないこととして、とにかく花火を追求したいと思っています。写真にはそうした使命感と責任感を自らに課して撮らねばならないことを、私は私の写真の師から学びました。
感動の原点について
   

 実際に目で観る花火に感激して、花火を撮りはじめてみたものの、夢中でやっている時期を過ぎるとすぐに行き詰まってしまいましたね。現物の花火を観て受けたような感動が写真に結びつかずに悩みました。ちょっと止めていた時期もあったくらいです。で、シーズンインして再び撮りはじめると、「オレってこんなにヘタだったっけ?」ともう愕然。ブン投げてしまう寸前でしたね。それでもたまに偶然に、偶然が私にいくつかの気に入った花火写真をもたらしてくれました。その時は気がつかなかったものです。たまたま得られた気に入った作品がどうしてうまくいったのか?自分でも好きでしようがない花火写真に撮れたのか?まぁまぐれだったんでしょうけれど。
 10年くらい前になりますが、ある時私は、ラボから上がってきた写真をルーペでチェックしていました。もちろんこれは撮影ごとの通常の作業です。全体を眺め、色合いを見、ピントを確認して、といつもどうりの手順なわけです。ふとその時なぜか目にしている花火映像の向こう側に、全てが解ったような気がしたんです。回路がつながったというか、初めて自分と被写体の花火が深く接した一瞬でした。
 その時感じたものは、日本の伝統芸術いや伝統そのものというか、もっと「技」とか「巧」といったものの深淵なる本質に「ヒヤリ」と触れた気がしたんです。一瞬のことでしたが解明されるにはそれで十分でした。「花火ってそうだったのか」とこれまで以上に花火の色々なことが見えてくるようでしたね。花火そのものはそれ以前から撮り続けたきたのに、その時が実は自分と花火との本当の出会いだったんですよ。この時の想いは後になっても何度となく甦ってきますね。
 花火を撮り始めてから、自分が望む方向の写真を撮ってきたつもりなのに、最近になってようやく自分が撮りたい写真の、理想の姿が見えてきたような気がしているんです。自分が花火に追究しようとしていることの方向や、自分がどうしたいのか、自分がどういう花火写真を撮りたいのかといった。実際の花火やその花火が与えてくれた感動の向こう側にある何かがようやくはっきり見えてきたみたいなんです。被写体である花火そのものにその深みを教えられたわけですね。実際に花火を生み出している花火作家の皆さんとも接することができ、こうした方々から感じとり、教えられたことも数え切れません。人が美をまとったモノを創り出すことの行為の素晴らしさというか、人が創り出したモノの美とかそういったことをさりげなく織り込めたらなぁ、と願っていますね。
 同時に、漫然とした撮影姿勢はまったく意味を持たないことがわかったのです。もちろんそこそこの見てくれのいい作品は撮れるでしょうけれど、たぶん人を心底感動させる力は持たないのだと思いますね。
 花火が好きで撮影し始めたものの、こうして本当に花火と再び「出会う」まで、結局はまったく花火のうわべだけしか見ていなかったわけですね。私にとっての良い作品は、被写体との密接な関わり、信頼とか理解とかいったものから生まれるようです。それと私の場合は感動を与えてくれる技への「敬意」や「感謝」、美しい花火に対する賛美の心と愛情です。
 実際の花火の方はというと、これが観れば観るほど、知れば知るほど花火の中の深遠なるものにようやく触れるばかりで、とても奥底を極めるところまでいってないんですね。最初に述べたような「出会い」なんていくらでもあって、その度にますますはまりこんで、探求の旅はこれからも続く、というわけですね。それは楽しみでもあるのですが………。(談)
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