発行 サークル花火万華鏡
編集同人 川上信定 武藤輝彦
矢野誠一 奥村 純
小野里公成
発行所 〒201-0003 東京都狛江市
和泉本町2-34-4 武藤輝彦内
定価 年4回発行
1500円(送料共)
郵便振替 00130-9-663056
花火万華鏡最新第18号より一部の記事をご覧になれます。
バックナンバーを読む
●FRONT PAGE
花火の思い出 -太田愛人
●連載
花火いのち(18)私の花火教育 -川上信定
明治14年版 清水卯三郎氏の著作について その3 -清水武夫
花火大会よもやま話(18)
思い出の「大江戸花火まつり」 -奥村 純
玩具花火(法規上)の歩み(その3)
●SPECIAL NEWS
オランダ花火事故-死者21名!
オランダ花火事故について -清水武夫
●NEWS TOPICS
日本一の花火消費が中断した-洞爺湖温泉の花火
6月6日に開花=タウン情報誌の花火特集
●寄稿
花火は究極のゼロ・エミッション製品だ -赤池 学
現在打ち上げられている大玉花火 -長谷川健一
泰国の花火 -M. ISHIBASHI
花火(詩)-谷 敬
●研究
笛花火物語 -武藤輝彦
●COLUMN
若い花火師の夢 -小幡知明
質問箱
万華鏡
●追悼・訃報
奥山氏を悼む
花火現場に30年-神山三郎氏を悼む
●編集後記
FPONT PAGE
花火の思い出
-太田愛人
花火にまつわる原稿を求められたとき、反射的に思い出したのは中河与一の『天の夕顔』であった。62年前の作品は、今日、手軽に読むことができない。書棚を探しても本は見つからない。図書館から借り出した現代日本文学大系(筑摩書房)62に、かろうじて6人の作品と同居していることを発見した。戦前、あの偏屈な永井荷風が一読して感動し、著者に手紙を書いたことや、翻訳されてジイドにまで読まれて激賞されたことは知っていたが、巻末の解説には『天の夕顔』について何も触れていなかった。
私はハードカバーの本と角川文庫版を特っていたが、他人に与えてしまったらしく今は手許にはないが、巻末の花火の描写だけは花火文学の最高傑作として記億に残っていた。
「それでもわたくしは今、たった一つ、天の国にゐるあの人に、消息する方法を見つけたのです。それはすぐ消える、あの夏の夜の花火をあの人のゐる天に向けて打ちあげることです。悲しい夜々、わたしは空を見ながらふとそれを思ひついたのです。
好きだったのか嫌いだったのか、今は聞くすべもないけれど、若々しい手に、あの人が嘗て摘んだ夕顔の花を、青く暗い夜空に向って華やかな花火として打ちあげることだったのです。
わたくしは一夜、狂気したわたくしの喜びのために、花火師と一緒に、野原の中に立ったのです。やがてそれは耳を聾する炸裂の音と一緒に夢のようにはかなく、一瞬の花を開いて、空の中に消えてゆきました。
然しそれが消えた時、わたしは天にゐるあの人が、それを摘みとったのだと考へて、今はそれをさへ自分の喜びとするのです。」
少し長い引用であるが、花火に寄せる人の思いで、これくらい優れた描写はない、と考えているので書いてみた。主人公は飛騨の山にこもって亡き佳人を追憶しているが、私が文庫本で読んだのは昭和30年代であり、場所は飛騨の隣にある信州の北辺の地、大町である。しかし県境を越えて作中に登場するのは北アルプスの山々である。三俣蓮華、黒部五郎、立山、剣岳など山岳描写にも事欠かない。山にひかれて18年間も大町に住んだ私の心を動かしたのは山岳文学ではなく『天の夕顔』であった。こうした山々を背景にして花火を上げたらどんなにいいだろう、と思っていたら、偶然その機会が訪れた。
黒田四ダムが完成し、そこへ行く途中に出来た大町温泉郷が、近くの高瀬川の河原で花火を打ち上げることになった。花火師たちは私の住む町の近くに泊ることになったので花火の情報が聴こえてきた。しかし、私は花火を見たものの、花火の事故のため傷ついた人々がいたことも耳にした。どうも小説再現のようなぐあいにはならなかったことを覚えている。やはり小説の世界で花火を心に描いてた方がよかったのではないかと思っている。(エッセイスト)
連載・SERIES
花火いのち(18)私の花火教育
川上信定
二十数年前、ある大学とのつき合いが始まった。マスコミ就職希望の学生に週1回、論文と作文の書き方を教えた。
年に3回ほど、勉強合宿をする。もともと勉強が鎌いで、他人が勉強させられているのを見るのも嫌いな私は、「遊べ遊べ」といい続けた。煽った手前、夏の山中湖セミナーハウスでの合宿には大量の花火を差し入れた。
浅草橋の某商店で仕入れる店頭売りしていない花火である。中国製。デコレーション・ケーキ大の1個は7、8千円した。玉(1号)と筒が別々になったのも6、7千円。普通の玩具花火代を含め5万円分くらいかかる。「へえ、これって花火すか?」
当初はこんな具合に半信半疑だった学生たち、1号玉を打ち揚げてみせるとギャーツと叫んで腰を抜かした。
なんだなんだ今のはなんだ一湖畔には各学のゼミやサークルの連中が押し寄せてきた。彼らの合宿にも花火ばつきものだが、こちとらチンケなロケット花火とは訳が違うのだ。一度など消防団が駆けつけてきたこともあったぐらいだ。
基本的にはご法度の商品である。けれども、先輩が後輩に「あの花火を見るだけでも合宿に参加する意義がある」と申し送ったため、私は毎年、貴重な遠征費用から大枚を出さなげればならなくなった。
合宿の直前こは家の近くで二子の花火(川崎市市制記念)がある。
「今度、先生ん家の近くの多摩川で花火がありますね。お邪魔していいすか」
30〜40人きた。ビールは風呂桶で冷やし、サンドウィッチは10斤、枝豆は近所の農家を拝み倒して根のついた株をごっそり仕込んだ。子供部屋も寝室も解放した。50人近くきたときはイナゴどもを階段に座らせて飲ませた。
「大変な出費すね、すんません」
「地方の花火に行くと、地元の人が色々よくしてくれる。その、恩返しのつもりさ」
こんな会話を交わしたのを覚えている。二子の花火のレベルは全国的に見て、打揚数、内容とも中の下といったところか。それでも5人中4人はいる花火童貞たちは「凄え、初めてだ」と喜んでくれた。今は主として雑誌媒体が競って取り上げるから若者たちの関心事の一つになったが、つい二十年前はこんな調子だったのだ。
二年前、大曲の会場で、複数の0Bを含むグルーブから「先生!」と声をかけられた。おお、見てるな、感心、感心」とニヤリとした。桟敷に巨大なクーラーボックスがある。何だそれは、と訊くと全部ワインだという。東京から20数本持ち込んだのだそうだ。「おまえら、トレンディしてればいいってもんじゃないそ」一こう説教した。私は、大会終了までは酒は飲まないと決めている、後日、そのOBに花火の印象を訊くと「覚えていませ一ん」だと。教育が悪かったようだ。
サークル同人・新刊「花火大会に行こう」著者
花火愛好家奥村 純の
「花火大会よもやま話」(18)思い出の「大江戸花火まつり」
昭和58年から平成5年まで、7月下旬の金曜日にフジテレビ系列で85分間にわたり、「大江戸花火まつり」と題して生中継された花火大会をご記憶の方も多いと思う。
当大会は埼玉県三郷市の江戸川河川敷を中心に、対岸の千葉県松戸市側の河川敷も使用した、大規模な大会であった。
なお、同場所でテレビ中継はされなかったが、昭和56年「'81 最大の花火フェスティバル」として主催、フジサンケイグループで開かれ、さらに昭和57年 「82 世界最大江戸川花火フェスティバル」と大層な名称で、三郷市・松戸市・フジサンケイグループの共催で開かれていた。
当大会をテレビを通してのみしか見なかった人には、芸能人の雑談・歌・踊り・バンド演奏・和太鼓等々から花火は添え物だったのだろうと思っていた人がいるかもしれないが、実際は大規模でよく練られた、素晴らしい大会であった。
なお、テレビ中継初回の、昭和58年7月29日は、現地の準備は進んでいたが、夕方近くに現地を急襲した雷雨でナイヤガラの滝に落雷し火が入ってしまい、延期となり8月31日こ開催された。筆者は、PL花火芸術と重なった昭和61年8月1日(話は脱線するが当日、丸玉屋小勝煙火店は両大規模大会で大変だったろう)を除いて、全て見学してきた。
1.テレビ中継
関東境方ではテレビ東京が、隅田川花火大会を毎年生中継している。当番組は芸能人等を呼んで、花火について語りながら、花火を写したり、芸能人を写したりしているため、テレビには闇夜が映ってしまうことが時々あるのである。これはテレビに合わせて、花火を上げていないため当然起こるのである。一方、当大会はテレビ向けに花火を企画し、それに墓づいて上げているため、テレビで闇夜が出てくることは少なかった。しかし、初期の昭和58年と昭和59年の大会は、慣れていないためだろう、テレビに合っているとはいえなかったが、それ以降は司会者の言葉に合致して。題名を言うとすぐその花火が上がり始めていた。打ち上げ現場の花火師の方々の苦労は、普通の大会に比べて並大抵ではなかっただろう。
当大会はテレビ向けということで、前記したように各種楽器等による演奏と共に、スターマインそれもワイドスターマインを上げ続けるという豪華版であった。
一方、現地での見学は、仮設スタジオヘの照明・効果用サ一チライト・レーザー光線により、花火が見辛かっただろうと思われただろうが、打ち上げ場正面の堤防はそれらの光も届かず、テレビ中継用とは思えない素晴らしい花火が見学できた。
2.日本の四季
最初の昭和58年から最後の平成4年まで、代表的な出し物として当題名のスターマインをいろいろと工夫して上げていた。昭和58年、5ヵ所からのワイドスターマイン・季節ごとに一斉に菊・または満星を上げていた。
春(紅)・夏(青)・秋(錦)・冬(白)。
翌昭和59年には、ワイドスターマインの前にワイド乱玉を上げ姶め、内容が充実し始めた。
春(緑乱玉・続いて紅満星)・夏(青乱玉・青柳に雷)、秋(錦乱玉、錦柳)、冬(銀乱玉・銀菊)。
昭和63年には各季節共、ワイド乱玉・ワイド虎の斜め打ち・満星5ヵ所から段打ち・ワイド虎の斜め打ち・満星5ヵ所から一斉と、1つの季節に5つの種類の花火を上げ、さらに冬には銀滝で富士山を出していた。
年ごとに豪華さが増し、最後の平成4年には、春(ワイド緑乱玉・4ヵ所から蝶投打ち緑満星入り・ワイド縁虎斜め打ち・4ヵ所から紫満星段打ち)、夏(青乱玉・青満星投打ち・青虎斜め打ち・花雷段打ち)、秋(錦乱玉・紅緑黄満星段打ち・紅虎斜め打ち・錦柳段打ち)、冬(薄緑スパンコール段打ち・銀滝により富士山。銀冠段打ち)、いずれもワイド打ち上げであるが、毎年いろいろと演出に工夫を凝らし、電気点火のタイミングも良く、素晴らしい花火であった。
3.思い出に残る花火
1 千輪の花園
昭和62年から最終の平成4年まで、年によって違うが、2ヵ所から8ヵ所より、7号・8号(10号)彩色千輸菊を段打ちで数分間上げ続けた。テレビではその見事さが伝わっていなかったが、打ち上げ場の正面で見学していた筆者を含めた観客は、その華麗さに、真上で開花していたこともあり、口を大きく開けて見とれていた。 まさに「時間よ止まれ」の境地であった。打ち上げ音・開花音・小花開花音・それらの空気振動・小花の鮮やかな色等、五臓六腑に響く花火であった。
2 日本で最新の花火の数々が登場
当大会では他では見学出来ない、競技大会でしか登場しない、最新花火が上げられていた。そしてそれを上げた翌年にはそれらを使用した、スターマインを上げていた。昭和62年、紅スパンコール・縁スパンコール。昭和63年、遊飛星・バリ椰子。平成2年、クロゼット千輪。平成3年、Z菊。
最近の花火大会で見られる、霞草・妖精・以外の全ての花火が見学出来た。
当大会の打ち上げを担当していた、丸玉屋小勝煙火店あるいは、丸玉屋の調査力さらには、それらの花火を打ち上げることが出来る実力を見せつけられた。
3 世界の宝石
昭和63年、トパーズ(錦スパンコール)・オパール(緑スパンコール)・ルビー(紅スパンコール)・ダイヤモンド(薄緑スパンコール)を、それぞれ3号玉により3ヵ所から投打ちで、それぞれ1分間打ち上げ焼けた。さらにそれら4種類を4ヵ所から、40秒間段打ちで上げた。つまり、延べ約5分間にわたって、スパンコールのみがワイドスターマインにより、上がり続けたのである。緑スパンコール・紅スパンコールは、この時代一般的でなかっただけに、その豪華さに会場からは自然に大拍手が起っていた。打ち上げ場の正面で見学していた筆者の視界全てがスパンコールで、その絢爛さに声も出なかったし、紅スパンコールが開花している間は、まさに言葉通り桃源郷の境地であった。
しかし、テレビではピアニストの即興演奏ばかり写し、この素晴らしい花火が少ししか放映されなかったのは残念であった。
4 空中ナイアガラ
正式に空中ナイヤガラとして登場したのは昭和60年だが、昭和59年に3ヵ所から銀柳を段打ちで上げていた。昭和60年で8ヵ所から、銀柳と雷を一斉に打ち上げ、短時間だったが空中ナイヤガラを成していた。
それ以降内容に工夫を凝らし、打ち上げ場も増やし、昭和63年で、15ヵ所から彩色柳に雷の段打ちに続いて、銀冠菊一斉とパワーアップしていた。平成2年で、10ヵ所から彩色柳に雷の段打ちに続いて、15ヵ所から銀冠菊一斉を3回上げた。最後の平成4年は、15ヵ所から各色集落投打ちに続いて、雷入り銀冠菊を段打ちしていた。
銀冠菊の前の出し物に変化をつけ、続く銀冠菊をより引き立つように考慮していた。15ヵ所からの空中ナイヤガラは、熱海海上花火大会のよりも大規模で、大会の終盤を飾るのに相応しい花火であった。
5 世界の花火
当大会では初回から、世界の花火に拘っていた。
昭和58年大会では、現地では何も打ち上げなかったが、テレビでアメリカ・フランス等の花火の映像を流していた。昭和59年大会には、「花火オリンピックシリーズ」と題して、イギリス・中国・オランダの花火を上げていた。それほど発数も多くなく、日本の花火に比べて、格段に良いのは上がっていなかった。その後も、スペイン・フランス・オーストラリア・アメリカ・ドイツと、文字通り世界の花火をしかも、発数も内容も充実してきた。そして、日本の花火では見られない色や形が出ていて楽しめた。
平成2年大会からは、松戸側の河川敷を使用し、広い場所に花火をセットし、1ヵ国7分間の持ち時間でワイドスターマインを打ち上げ続けるという、当大会でも屈指のプログラムになっていた。
花火を上げている間、テレビ用に当該国の音楽をバンド演奏等で現地の仮設ステージで演じていたが、現場で見学していた筆者等の観客にとって、それはどうでも良く、花火のみで十分であった。
なお、コンピューターを使用して点火する国も出てきて、演出面で日本よりも勝れている所もあり、今後の花火大会の方向を考える上で非常に参考になった。
4.枠仕掛け
近年粋仕掛けというと、秩父の夜祭り等を除いて、広告枠仕掛けばかりである。当大会も一部テレビCMの予告としての広告枠仕掛けもあったが、大部分はフジサンケイグループが製作に関係した、映画の代表的な場面を枠仕掛けで表現していた。「子猫物語」「竹取物語」「タスマニア物語」等と続いて、毎年20台前後の枠仕掛けが出ていた。しかし、その枠仕掛けは完全にテレビ向けで、見物客が少ない河川敷に足場を組んで実施していた。そして、テレビで見ると、アップで写しているため、ランス1本1本がはっきり見えてしまいお粗末であった。
以下略
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SPECIAL NEWS
オランダの大事故! 死者21名
オランダの花火事故について、オランダ在住の勝山氏よりその後の状況をお知ら世いただいた。毎年千葉県佐倉南の国際花火大会に、ヨーロッパから花火師2組を招聰する世話役を務めておられる勝山氏である。現地の新聞で見る状況は予想を倍する大事故である。ある新聞はトップ1頁を災害跡の惨状を写している。
アムステルダムの東方約160kmのドイツの国境に近い人口14万5千の都市、エンスペデェEnschedeの街の真中にあったS.E.ファイヤーワークスの貯蔵庫が爆発し、大被害を及ぼした。会社は100年前から先々代が花火製造を開始。30年前に製造中止して販売業にかわり、中国花火を中心営業していたが病気のため2年前に引退。従業員2名に譲渡したという。花火工場時代は原野であった敷地は、市街化して被害を拡大したという。貯蔵には40フィートのコンテナ14例を並べていた。5月13日午後3時半頃倉庫から発火。当初小爆発で消火に集まった所に二次爆発を呼び、コンテナ3個が空中で爆破されるまでにいたり、熱風を吹き上げたという。
死者は消防士3名を含む21名(当初の行方不明2〜300名)、負傷(現在入院中)13名(内4名集中治療室、当初の発表944名)、住宅を失う者500世帯、現場付近の個人住宅190戸の内90戸は全壊。事業所を失った者60人、大被書を受捗た事業者200人、軽い被害者350人と小型事業者が多いという。
在庫の大半は中国産の花火で、公称10万キロといわれ、付近の住民は煙火貯蔵を知らず、紙製品の貯蔵と理解していたとか。市長の認可・国防省の環境認可助言局の規制を受けることになっていたが、コンテナ数その間隔ななど、9件の環境認定規制違反を指摘されていたという。
5月19日開催された追悼パレードには、10万の市民が参列し、アレキサンダー皇太子・ユック首相はじめ閣僚が出席する国家あげての盛儀こなったといわれる。
オランダは国土は関東地方に匹敵するが、煙火販売業者は8社居り、現在は国内産はなく中国産を主力に伊・仏・独・西の4ヵ国産が加わって消費されているという。
(ウィークリー日本語で読むオランダのニュース参照)
スペインでも10名死傷
ななおこの事故に続いて、5月15日月曜日にスペインのバレンシア市でも花火事故が発生し、死者5人、負傷5人(内2人は花火を買いに来ていた客であったという)。同市はスペインの花火製造の拠点といわれる地区で、郊外にあるエルダムス・ボレダ工場での事故であった。
いずれも中国産品が原因といわれ、中国の花火販売方式の変更に伴う、品質低下が関連するのではないかと思われる。かねて、玩具燈火の爆発実験で、コンテナに外部から着火させるのに苦労した経験からも、中国産品の威力?に変動があるのではないかという危倶の念を禁じ得ない。
オランダ花火事故について
-清水武夫
この情報は在オランダの勝山光郎氏からいただいたものである。5月13日午後3時半頃、オランダのオーバーアイセル州エンスヘデー市で花火会社ESファイヤワークスの倉庫が大爆発を起こした。住宅380〜400戸が全壊し、行方不明者は約110人程度とみなされた。この花火保管所では海運用のコンテナに約100万kgの花火が保管されていたということである。
本来この倉庫の場所は、現経営者の祖父の時代(約70年前)ではオランダの手作りの花火工場であったが、約30年前から中国の花火の輸入をしているだけで、自分の作った花火はなかったということである、初めは倉庫の扉が燃え、近所の人々も見物に集まり、消防者も集まった時に大爆発が起り、死者、コンテナ3個が空中高く舞い上がり2000℃という熱風と爆風で付近200m以内が完全に崩壊し、500m以内の建物も大きく崩れたということである。写真で見ると、跡は多量の瓦礫の山である。
筆者の感じでは、今回のオランダの事故は、日本では運搬中の事故に当たるであろう。ただし長期間コンテナを駐留させることは、日本では行われないと思われるが、運搬中なる概念を安易に考えてはならないと思われる。ドイツの危害予防規則によると、火薬または火薬を含む製品を積載した運搬車は、すぐに輸送したり荷降ろしが出来ない時は、危険の少ない場所に存置されなければならないこと、またこの一時存置の滞在時間は、積み降ろしの時間を含めて72時間を超えてはならないとある。今回の事故は、火薬庫の代りにコンテナを使った一時存置であり、それも長時間の存置であって、これは常識的にも随分と危険なことであったと思われる。
<追記>ドイツの新聞の記事によると、エンスヘデェはドイツ国境に近く、消火活動こはドイツ側からも参加したという。同貯蔵所は法に照して合法的であり、役所から認可され事故の前週に検査を受けたという。
COLUMN
若い花火師の夢
群馬 小幡知明
私は子供の頃花火が大嫌いでした。それというのも夏休みは何処にも行けず、半分以上は家の手云いで終ってしまい「何で花火屋に生まれてきたのだろう?」と、思いつつ我慢してきたからです。しかし、友人達は「花火屋さんなの?スゴイ!カッコイイ」などと、人の気も知らず勝手にいいます。その度に「何がスゴイ?何処がカッコイイの?」と疑問に思っていました。その頃の私が憧れていたのは、ファッションデザイナーです。流行のファッションを創ることが、中学の時の夢でした。高校を卒業して、東京の服飾専門学校に入学しました。そこでは頭に描いているもめが、すぐに出来ると思い意気込んでいましたが、なかなか思うようにいかず挫折感ばかり募らせ、いい加減な生活をおくり毎日毎日苛立っていました。その年の夏実家では、猫の手も借りたいほど忙しく、やはり当たり前のように帰り、手伝いをしました。昼間汗だくになって働き、夜空に打ち揚げられた花火を見た時、荒れていた心が安らぎ、今まで大嫌いだった花火が、何と素晴らしいものなのだ、と感動しました。あまりにも身近過ぎた花火。こんなに身近に自分の求めていたものがあったのか?「花火を創りたい」と決意し、この道に入りました。現在は長野県の紅屋青木煙火店・青木昭夫社長の元で修業をさせていただいております。修業を始めてまだ1年ですが、多くの花火を見学させていただき、花火の奥に深さ、その魅力に取り憑かれて、今は我武者羅にやっています。
思いは、古来より伝わる伝統花火、それと全く違った新しい花火、人々に感動と夢を伝える花火を創っていきたい。そしていつ到達出来るか分りませんが、自分で納得のいく花火を創れる、日本一の花火職人になれるよう努力していきます。これを実現することが、私の夢です。
(有限会社菊屋小幡花火店)
万華鏡
オランダで起った花火の爆発事故は、想像を絶するものがある。いっしか市街地の真っただ中の存在となったにせよ、四囲の煉瓦造の建物が微塵に壊れている。昔がん具の燃鏡実験で、コンテナを外から着火させるのに昔労した経験を特つ身には、不可思議としかいいようがない。中に収まっていたのは中国産品ときくと“中国花火はこわい”と叫びたくなる。最初は国や省が管理していた輸出が、段々下部にさがり、郷さらに工場が直接オファー出来るようになってきた結果ではないかと考えたくなる。特に100万トン以上の人が花火に雑事しているという湖南省。その工場公司から輸出されている花火は、その値段もおそろしく安いが、品質について、特に安全性は保証されているのだろうか?コンテナが空で爆燃したときくと、塩素酸加里から脱却せず、特に速火線が塩ボツ入ではないかと危慎する。
日本にも、全日本中国花火輸人協同組合員の手を経ない中国品が流通する傾向が見えてきた。“安かろう悪かろう”の引き合いが、直接中国の工場から日本のメーカーにきているという。
がん具を作る心構えで、打揚玉が大量生産きれたら保安上も不安定、経営もゆがんでくる。価格が2割安い3割安いというのなら驚かないが、5割以上も安いとなると穏やかでなくなる。消費におけるPL保険も、現在輸入協同組合経由のものは加入されているが、この種の直輸入品には配慮されていないわげである。この点だけでも、よくよく考えねばならないことである。オランダには花火打揚業者が8社あるというが、国内生産はなく、中国産が大半を占めているという。中国の世界制覇がほぼ達成された結果、打揚花火はいわゆる中国風にかたより“華やかだが、深みがない”ものになっているという。やがて日本もそうなるのだろうか。真剣に対策を考える必要があるようである。まさかオランダの大事故は二度と繰返すことはないと信じたい。
(武藤輝彦)
編集後記・FROM EDITORS
★花火が爆弾と同じ威力を持つ。想像以上の被害に驚く。置いた場所、置き方が悪かったにせよ置いた物が最大の問題である。百万人が作る中国製品は素性を確かめて買いたいもの。「安かろう、悪かろう」は通用しない。
★オランダの勝山さんから第一報をいただき、さらに6月上旬に確報をいただいた。35歳の若い経営者が2人で運営を始めて3年目。保安精神の欠如は否めない。
取締の役人をナメていたかナアナアだったか。
★今年の正月越年の花火は、欧州も豪州も派手だった。どうも新世紀を迎える喜びであったようだ。米国は来年を目指しての企画が考えられているようだが、目下調査中。通常、越年の花火が最も地味な我が国だが、百年に1度のチャンス。主催する立場の方々の発奮を願いたい。皇太后さまはじめ多くの方々が亡くなる。我々の周囲も同じで、追悼号になった。尖端の歩みをのせた結果か、丸玉屋さんに関わる記事が重なった。無作為の結果である。いいことはいい。小紙の歩み方である。
T.M生
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